地熱の力・高床と土座

古民家から学ぶエコハウスの知恵 地熱の力・高床と土座
地熱の力・高床と土座

高屋(高床)と穴屋(土座)

竪穴住居(三内丸山遺跡)

 夏の日差しで暖められた地熱は、真冬に地下3~5mのところに半年かけて到達します。また、冬の寒さは、同じように半年かけて、地下3~5mのところに到達します。「穴屋」は、こうした夏冬の温度の逆転層を活用した家のつくり方だったのです。その結果、南から北へ向かえば向かうほど竪穴住居の深さは深くなっていくのです。その深さは、1~2mくらいでした。そのため、家の出入りは楽ではなかったようですね。

人類は家族のために人間の巣、「家」をつくってきました。電気も石油もガスもない中で頼れるのは自然の恵みだけでした。古代人は自然の宝を見つける名人です。
 冬の寒さのない地域では、「高屋」(高床)が快適であり、遠く東南アジアに共通した家のあり方でした。ところが、日本列島の多くは、寒い冬と暑い夏がありました。そのような地域での原始住居は「横穴住居」や「竪穴住居」から始まりました。それは、夏涼しく冬温かい「穴屋」(土座)だったのです。

東京における外気温と地中温度の年間変動(1944~48年の平均)

 高床倉庫は、食物の貯蔵や、特別の行事などに使っていました。床下の通風、害虫や害獣から食物を守るための仕掛けが高床倉庫でした。人間が暮らすにはたいへん過酷な環境です。夏は暑く冬は寒い熱環境が床下にあるのですから。
 このような暮らしは、日本では、縄文時代から平安時代まで続きます。1万年以上の月日です。その長さにとても驚かされます。どれだけ長く、人びとが竪穴住居という住まいのかたちを享受していたことかと神秘と感動を憶えます。

 縄文時代は、採集と狩猟の生活といわれています。しかし、遊牧しているわけではなく、かなり広い範囲でドングリの木を育てたり、海の恵みも採集していたことが分かっています。ただし、石器の道具しかない生産力の中では余剰は生まれず、少人数の集落で暮らす原始共同体といえる3~8戸くらいの集団でした。また、寿命も30数年くらいと短く、家族数も核家族といえるようなものだったため、家の大きさも直径5~6m前後の小さいものが多かったようです。

高床倉庫(三内丸山遺跡)
土葺き屋根の復原。遠方にあるのは高床倉庫(御所野遺跡、縄文中期)

実は、土屋根が多かった竪穴住居

 発掘現場では、火災によって屋根が崩壊し崩れ落ちた竪穴住居が度々発見されています。そこでは、土間とは明らかに異なる土層が堆積していました。それは中央部は比較的薄く、周辺部では厚くなっています。屋根の崩壊によって落下した屋根の上にあった土が堆積したものだと考えられます。つまり、当時は、土葺き屋根だったのです。天窓もあったようで、それはぽっこりと土がなかったので分かるのです。

 屋根の上に土があれば、夏涼しく冬は暖かい、さらに雨仕舞いもいいはずですね。土屋根は珍しいものではなく、土屋根の方が多かったと考えられています。見事に「エコハウス」だったのです。さらにその土に草が生えると蔵によく見られる置き屋根(日傘)と同じ原理になりますね。

多様な竪穴住居の構造

 竪穴住居跡には、一部の例外を除き柱の跡があります。1本だったり、2本だったり、4本だったりします。
 国内で最古の縄文時代早期の遺跡である鹿児島県の上野原遺跡は、南に鹿児島湾や桜島、北に霧島連山を望む、鹿児島県霧島市東部の標高約250mの台地上にあります。約9,500年前には定住したムラがつくられましたが、火山の噴火で一挙に集落が埋もれてしまいました。そのおかげで同時期にあった住居が16戸だったことが分かりました。
 約7,500年前には儀式を行う場があり、森の恵みを受け、縄文時代の早い段階から多彩な文化が開花し、個性豊かな縄文文化が築かれていました。縄文時代早期に定住的な営みがされていたのです。
 そして、この竪穴住居には柱がないのです。籠状に細い枝で屋根が葺かれていたのです。シェル構造ですね。
 縄文時代中期から後期には柱は4~6本となり構造法が定着します。これは多くの方がイメージしているものです。
 三内丸山遺跡にはロングハウスがあります。長軸が10mを超える大型住居が縄文前・中期あわせて20軒ほど出土しています。共同作業場説や集会所説、冬季の共同家屋説などに加えて神殿説や首長一族の家屋説がありますが、いずれも確証はありません。しかし、約5,500~4,000年前の縄文時代中期にそれだけの経済力と技術を持つ大規模な集落があったということは確かです。

縄文時代観の見直しを迫る具体的な発見として次のことが挙げられています。
① 巨大木柱痕や漆、ヒスイ加工に象徴される優れた建築・加工技術の存在。
② クリやヒエなどの栽培技術の存在。
③ 住居,墓,倉庫,櫓,ゴミ捨て場,粘土採掘穴などの集落の各施設の計画的配置。
④ 通常一集落が消費する量を超えた土器や土偶などの大規模な生産。
⑤ ヒスイ、アスファルト、黒曜石などからうかがわれる他地域、遠方との交易。
⑥ 幼児の埋葬からうかがわれる再生観念の存在。
⑦ 大型の住居や墓地のあり方などからうかがわれる階層社会の可能性。

復原された望楼と大型竪穴建物・ロングハウス(三内丸山遺跡)

炉の発達と、防火対策

 竪穴住居に炉がつくられるようになるのは縄文時代草創期と、とても早い時期からです。南関東や南九州の早期前半の遺跡では、調理器具として使う石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器が大型化し、出土数も増加します。
 炉は、地床炉(じしょうろ)が多く、石組炉もあります。中期では、地床炉や石囲炉、また炉体土器を伴う炉が見られ、中期後半の東北地方南部では複式炉が現れます。複式炉とは住居の中央に土器を埋め、その南側を掘り窪めて石で囲んでいます。石で囲んだ部分で火を焚き、土器の中に火種を保存していたと推定されています。
 炉は、古墳時代前期まで続きますが、古墳時代中期になると北側や東側の壁にカマドを設ける住居が出現し、時代が下ると共に発達していきます。
 炉のまわりには、防火構造が必要です。炉のまわりに防火土壁を設けたり、カマドの上には燻製など調理に役立てたような棚も設置されていました。また、朝鮮の民家のように垂木間に木舞を入れて、下から土を塗り上げた例もあるそうです。

望楼・大型掘立柱建物(三内丸山遺跡)。14.7mの建物として復原されている

木材はクリが多く使われていた

 遺跡発掘が進む度に、先史時代の木造技術の高度な発達が明らかになっていきます。縄文時代前期から中期は、今より温暖な気候が続き、北陸から、中部、東北にかけて落葉広葉樹の森が広がっていました。その森は縄文人の森です。
 三内丸山遺跡では、直径1mのクリで大規模な建造物がつくられていました。ホゾや貫などの木造技術が存在していたことも確認され驚かされます。また、クリを食料にしていたことも明らかになっています。クリを建築に使う慣習は、江戸時代から近年になっても継続していきました。古民家では土台にクリを使用することはけして珍しいことではありません。水に強いので鉄道の枕木にも使われているほどです。また、挽き割りやすいため早くからクリが活用されてきたのです。道具と用材の関係は密接です。

 古代の森の復元には、花粉の分析が非常に有効です。花粉はたいへん強い膜をもっていて、湿原や湖底など酸素やオゾンの影響を受けないところに落下すると、何万年でも腐らないで残るのです。そこで、ボーリングによって堆積物を採取し、土の中に含まれている花粉の化石を抽出し、どのような種類の花粉がどのくらいあるかを調べることによって、過去の植生や気候などの環境を復元することが可能となるのです。
 このような花粉分析によって、縄文時代の森を復元してみると、縄文人と森との深い関係を実感できます。三内丸山遺跡の土に含まれている花粉の90%以上がクリの花粉でした。自然の状態では、クリの花粉が90%以上もあることなど不自然であり、縄文人がクリを栽培していたと考えられます。また、このことはクリのDNA研究からも明らかにされています。
 縄文時代の人びとは、森と共に生きていたのです。春には山菜を採り、夏には魚介類を捕り、秋には木の実を拾い、冬には狩をする。縄文人たちは春夏秋冬という日本の季節の循環にぴったりと合った暮らしをしていたのです。

出典・参考資料
縄文のムラ・定住社会
http://bunarinn.fc2web.com/kodaitatemono2/jiyomonnmura/jiyomonmura.html

Wikipedia 竪穴式住居
https://ja.wikipedia.org/wiki/竪穴式住居

古代の森研究舎ホームページ
http://www.kodainomori.jp/

緑のgoo web講義「花粉分析から縄文は森の文化と提唱」
http://www.goo.ne.jp/green/business/lesson/feb02-2.html

『建築コスト情報』2011年4月号
「建築利用における木の生かし方その1」建設物価調査会、季刊版

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